言葉の本当の意味って…?
『お母さんはどうして僕を死なせてくれなかったの?』
そんな子どもの言葉に思い悩むお母さんがいました。この言葉、どストレートに受け止めてしまうと、お母さんもメンタル崩壊のズタボロですよね。それまでに、いろんなことがあったからこそ出たのだろうと、容易に想像ができる重たい言葉です。
だけれども、それって本心で言ってないよね?お母さんを苦しめたくて言ってないよね?って私は感じるところがあったのですが、その言葉の段階的に捉えている精神科医の先生の記述がありましたので、ご紹介したいと思います。
『他罰も自罰も自己感覚の障害』
自罰と他罰のひっくり返しは、次のような過程で進みます。
今の自分は情けない状態だ→親に申し訳ない→死のう→死ねない→よく考えてみれば、私は生まれたくて生まれてきたわけじゃない→親が勝手に生んだのだ→親のせいで私は追い込まれている→親は私をダメにする毒を持っていた→親は私に賠償する義務がある。
自罰感情(私が悪い)が他罰感情(親たちが悪い)へと容易に反転する理由は、自罰と他罰の感情が無意識領域の同じところから出てくるからです。無意識は、言語化(意識化)できないから無意識なのですが、強いて言えば、乳児期からの親たち(主に母親)への愛着(アタッチメント)に根ざすものでしょう。
引用:「毒親」って言うな! 斎藤学・著
繰り返しになりますが、『お母さんはどうして僕を死なせてくれなかったの?』という言葉。
その言葉の捉え方としては、自罰(自傷行為)から、他罰(お母さんが悪い)に反転した、と捉えられるのです。だから、今その子は、段階としては、他罰の段階に心が向かっている状態で、さらに進めば、どのような段階がくるのかがなんとなく想像ができるのです。そう捉えられるか捉えられないかで、お母さんの心の持ち様は随分と変わってきますよね。
マーケティングの世界でも、95%ともいわれる無意識領域・潜在意識に注目することが重要視されているけれど、この家族のコミュニケーションにおいても、言語によるコミュニケーションに頼りがちなところを、「非言語」や「無意識」の方に目を向ける事の重要性を再認識させられました。
私たちは普通、何か悪い行為をおこなって(あるいはおこなおうとして)、罪の意識を持つと考えるものですが、ことが無意識(衝動)の領域に入ると、こうした常識が通じません。その結果、まず先に原因不明で非合理な自罰感情もしくは、それを否認した感情失読があって、それが罪意識の程度に応じた犯罪行為や自傷行為(例えば、リストカット、タトゥー、ピアッシング、過剰な買い物、窃盗)を起こすというパラドクスが生じるという仮説が立てられるのでへはないかと思い至ったのです。
引用:「毒親」って言うな! 斎藤学・著
あくまでも斎藤学先生の仮説ではあるのですが、なんかわかるっていう人は、多いのではないでしょうか。
人って、操ることのできない「無意識(衝動)領域」に苦しむんだなぁと。
捉え方を変える、落ち込みすぎずに回復するスキルを身につける、幸せにもっと目を向ける、とより生きやすさを身につけていけるのではないでしょうか。
時間はかかっても、良い方向へ進むためにできることに目を向けていくお手伝い、これからも継続していきたいと私は思っています。
最後、「お母さんのための『幸せ』心理学」多湖輝・著 より引用で〆たいと思うのですが、
「いちばん大事なのは楽しく食べること。親が陽気なら子どもも明るくなるし、食卓の話も弾みます。食事を通して子どもや夫と向き合ってほしい」
そうすれば、どんな手抜き料理でも美味しく食べることができます。
食生活にいちばん大切なのは、たくさんの会話ですというのが小林(カツ代)さんの意見です。
わたしもそう思います。
家族と向き合うときには楽しく過ごすこと。幸せなお母さんが心がけるのは、それだけで十分です。
料理でいうなら、手間ひまかけるより楽しく食べること。
子育てでいうなら、世間を気にするより自分が楽しむこと。
そんなお母さんの生き方を、私は精いっぱい、応援したい気持ちです。
言葉ってそんなに意味を持っていないというか重要ではなくて。だけど、感覚的なところ、「楽しく」すごすこと、「幸せ」を感じること、そんなところをもっともっと大事にすることが、自分も家族も幸せになることにつながるのではないかと。
あと、ちょっと余談。人生最後に何を食べたいか?に、天ぷらや鰻が上がってくるのは想像できると思うのですが、意外とカップ麺やチキンラーメンなんて所謂ジャンクフードと捉えられがち、避けてきた背徳な物を食べたい!となるケースが結構あるそうですよ。本当に食べたい物だって、わからないものですね。
今回、重いキーワードで始まった投稿ではありましたが、誰かの『幸せ』のヒントになったらいいなと思っております。